スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

巻頭言 あるいは『生殖の「祭」としての切腹。』

※最新の記事は、この「巻頭言」の下に表示されます。

*****

 最初の切腹は、歴史が記される以前、巫女としての資質を備えた女性が、豊饒を願う人々の意識を身体に受け止めて、その想いの依り代(よりしろ)となった時、大きな悦びのうちに行われたもの---と思うようになりました。そのような状況には、人の精神と肉体とを、切腹という行為に向けて昂揚させてゆく何かがある---むしろ、切腹とは本来、そのような場面においてのみ行われたものであり、後世のそれはヴァリエィションに過ぎない、と感じたりしています。

 自らが属する共同体の人たちの集団的な「気」を、自らの臍下丹田に集めること---それを大切に慈しみ、熱く烈しく燃え上がらせること---そして、それが産み月を迎えたのを知ったとき、彼女は、自らが欲するところに従って、ほとんど本能的に、その気によって満たされた腹を、思い切り深く割いたことでしょう。そしてその時、巫女が得たものは、苦痛などではなく、何か異様に快い感覚であったのでは……と、思わないではいられません。

 「出産こそは最大のエクスタシー」と、経験した多くの女の人たちは語ります。自らの胎内に播かれた種を大きく育て、現世に産み出すことは、女性にとっては大きな精神的、身体的な悦びの行為だからです。それが約束された悦楽であればこそ、今日においても、たとえ出産することで母胎が危険にさらされるようなことがわかっていた場合でも、ほとんどの女性が敢えてその危険をおかすのでしょう---ですから、切腹とは本来、自殺の手段ではなく、供犠の儀式でもなく、むしろ、生殖の追体験/シミュレィションとしての、悦びに満ちた「祭」であったのではないでしょうか?

 それがそのような、生き生きとした生殖の「祭」であったとしたら---眼前で、その人たちすべての「気」を注ぎ込まれた巫女が、大きな「命」の宿ったお腹を誇示し、そして、自らの手でその腹を割き、その人たちの「子」をとり出して見せたとき。人々の願いに豊饒の象徴としての内臓を添え、精神的/身体的な爆発するようなエクスタシーの波動に乗せて、人智を越えた存在へと届けることができたとき---そこに立ち会った女の人も、男の人も、自らの生殖へ向けた欲望を烈しく掻き立てられたのではないでしょうか……? 今日に至るまで、切腹が性の欲望の対象となってきた理由の一つは、そこにあるのかも知れません。

 その後切腹は、その時代や地域によって異なった、様々なイメージを身にまとうことになります。それにつれて、色々な意味や機能を帯びた切腹が行われ、そして今、それは消滅しようとしています。そのような時代であればこそ、最初の切腹の意味を考え、そこに立ち戻ることも必要なのではないでしょうか。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

さようなら

Rika さま
七日の深夜、すべての準備を整え遺書を書き、大鏡の前で独りで懐剣の切先をお腹に構えるまではしましたが、結局出来ませんでした。
激しく芯が疼き、萌えました。ためらい傷から血が洩れました。
あんなに固く誓っていたのに、出来なかったのです。なんとも情けないこの私!
自らを恥じ責める気で一杯です。でも結局、これでいいのだと韜晦してしまうだらしないこの身。やはり幻想と現実は違います。
火照った急所を独り慰めるしか能がない私・・・軽蔑しないでくださいね。
隠遁します。さようなら!

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

No title

長らく待っていた2015年の1月7日が迫ってきた!
そう思っていたら、2年延びて、2017年の1月7日になりました。
より豊かな稔りをお求めと思いますが、お気持ちを聞かせてね

お名前が、

 「利香さん」って、わらしと同じお名前?

 紛らわしいありますねー。

なんだか国際的アイドルでござるな(^^)

利香様as NO1なのでござるな。。。

利香さんの切腹写真がほうしです

利香さんの切腹写真がほうしです。それはたなあに削除しましたの。
 私わ中国じんです、日本の女性切腹文化が大好き。
その 中国語圏のWikipedia(「切腹」の下に、「女性切腹」という項目が 私が添加だった。
私のMSNは:sakurafubukimomoe@hotmail.co.jp
EMAIL:sakurafubukimomoe@hotmail.co.jp
或は:sakurafubukimomoe@gmail.co.jp

管理者にしか読めないコメントには……、

お返事できないことになってますので、今後はあしからず、なんです!

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

お久、です。

 すみません、暑かったのでblogを見ませんでした(謎)。

 会社がもめてたりして、何もやる気がでません(笑)。趣味のことさえ、しばらくご無沙汰です。PCの具合も、ちょっと変かな。

 うん、今年はそんな夏なんです(あはは……)。

久しぶり

手習いしてる?(笑)
細々と思いつくままに書いてる。
お元気かな?

現実的ロマン

プーというのは、すでに・・・。
気の集積があろうとも。

ちょっと萌えて。

 前にもよそで書きましたけど、ぷーしたいがために罪を犯したり、憂国を装ったり……。そんな最期を夢見ることが許されて、実際に行っても蔑まれなかった時代は、もう戻ってきませんよね(笑)。

 その時代には、ぷーぷーは社会から認知され、意味を与えられた手段だったから。ぷーすることで罪を帳消しにしてもらえるなんて、いいですよねー。でも今は、良くても時代錯誤。頭のおかしい人。悪くしたら変態なんて目で見られてしまいます。それはちょっとヤダー、というのがわらしのテーマなんです。

 そこで考えた(捏造した)のが、『生殖の祭としてのぷー』という理論(笑)なんですけど、わらしとしては、なんか説得力があるなー、って(あはは……)。裏を返したら、独りだけの「気」では無理ですた、という敗北宣言なんですけどね……(えへえへ)。

 ホントにぷーするためにはどうしたら良いのか……、という現実的な問題へと向けた意識が常にあるから、わらしの書くのは、あんまり
ロマンがないんです、きっと(えへら)。

 あ、何だか萌えてきたー(恥)。来月くらいに、手習いしちゃおうかな、って、一年ぶりかも(笑)。

目的と手段

なるほど、プーが手段である以上は目的はその先にあるということですか。
死、贖罪、大義、その実現の手である以上、プーに意味を持たせなければならない。プーそのものが目的であろうとするなら、プーに意味を持たせてはならないということでしょうか。
自殺の手段の一つとして見ているうちには考え付かないですよね。

うー。

 「公」という概念は、「私」の対極にあるものとされますけれど、ぷーぷーが今も「公」の行為として考えられているのは、それが目的ではなく手段である、という認識が一般的だった時代が長かった、からでしょうね。それはたとえば、贖罪、抗議の身振り、無念の気持ち、あるいは愛情の強さなどを外に向けて表現したいときにぷーが手段として選ばれた、ということですけど、そんなぷーが賞揚された社会では、「私」的なぷーは(あるいは目的としてのぷーは)やはり否定されてしまいます。

 「憂国」に見られるように、ヒロイズムや自己犠牲は、ぷーするにあたっての効果的な味付けの一つでしたよね。「でした」と書いたのは、あの時代や事件という背景であったからこそ効果的だった、ということですけど、そんな状況を構築することは、三島の頃にはもう不可能になっていました。彼はきっと、本質的には目的としてのぷーを望む人だったのでしょうけど、受けた教育のせいでしょうか、手段としてのぷーを装わなくては、という強迫観念から逃れられなかった---そこに、あの事件の哀しさがあるように思います。

 さて(笑)、わらしがそういう「公」のぷーに対して無関心なのは、今書いたように、それは今ではもう利用不可、だからです(笑)。幻想の中なら、まだ利用価値があるかも(爆)。でも、実際にぷーすることを考えた時、「公」の理由を装おうとすることは無駄な努力だし、そういう嘘っぽいことを考えてもあんまり萌えないんですよね(あはは……)。

 やっぱりわらしが萌えるのは、「私」的で目的としてのぷーみたいですっ(笑)。ぷーに萌えて、萌えつきちゃうって人がいてもいいじゃない(えへえへ……)。

 一足お先に、明日から実質的な連休の開始です。やたー。

プーの納得

切腹への納得というものがあるとするなら・・・。
とるべき道が死を受け入れなければならない状況になるということでしょう。周囲の状況から、自己の内的苦悩のけっかとして、あるいは自分が守るべきものと死を比べて。死の方法として切腹が選択される。
ただ、切腹に駆り立てられる想いは、プーという行為によって自己の肉体に自らが加える苦痛によって、自分の汚点を全て清浄化し正当化してくれると自分に思い込ませるものがある気がする。
死の方法として、私的な死を公的死に高める幻想。
「憂国」の中で、「これは公的な死だ」という中尉の言葉があった記憶があります。

えへえへ。

 うー、kikuたん、朝もはよから難しい話題、振っていただきましてどうもです(笑)。

 昨日は一日銀座にいて、時間つぶしに入った書店で『最後のロマンティーク 三島由紀夫』なんて本を見つけて斜め読みしていたのですが、途中まで読んで、その作者が拠って立つところのものが「ぷーぷーとは苦しいだけのもので、そこには精神的/肉体的な悦びなど絶対に介在し得ない」という思いこみ(?)だとわかった時点で読むのを止めてしまいました。少なくとも、精神的な悦びはあるんですけどね。肉体的なのは……あると思うけど(あはは……)。

 この手の三島関係の本は、今でも時折刊行されていますけど、三島のぷーぷーはなぜ行われたのか、について、皆さん意見が異なっていらっしゃいますね(笑)。そんなように、一つのぷーぷーの意味にも、解釈する人の視点によって、色々なものがあって然るべき、なんでせうねー。

 ぷーぷーに関してのわらしの立場は、批評家ではなくって、ぷーぷーに萌えていて、ホントにぷーしたいなあー、というものです(笑)。その理由なんて自分にもよくわからないし、他の人にはもっとわからないんじゃないかな、と思ってます(あはは……)。

 でも、もしぷーするんだったら、「なぜ?」という自問に納得できるような、自分なりの見解は固めておきたい……という気持ちで書いたのが、上の文章だったりするんですよー。だからこれは、数年前のわらし自身の「立場の表明」なんです。

 本家の物置にある「性的な……」というのは、10年以上前の「立場の表明」ですけど、それに納得も覚悟もできたけど、でもぷーできなかった(笑)。というように、時々によって変わったりもします(あっはっはっはっはあ……)。

理系と文系といっても、それほど意味は・・・

文系だって理論はひつようなんですが・・・。ただ、助詞の使い方や情緒に訴える方法論としてそのような話を聞いたことがあるので。
切腹を私的な内なる感情の発露としてとらえるのと、公的死の儀式の形態お捉えるか。個人においてはどのような捉え方をしても、死はあくまで唯一絶対な自己の消滅でしかないとは思います。
気の集積供犠の儀式といっても、それは死に立ち向かう、内的自己満足でしかないとはおもいますが。
現在の自爆テロにも、神への供犠ととらえて死に立ち向かう人がいます。

理系……。

 理系と言われても……(笑)。このテーマは、強引に分類したら民俗学とかそっち方面のものだから、やはり文系的な文章になるのかな(って、文系と理系という二分法も、ちょっとピンとこない今日この頃です)。

 いずれにしても、これはただのマニフェストみたいなもので、しっかりとした論文やエッセイであるはずもありません。散文で書かれた詩のようなもの、というのが妥当なところでせうかー。

なるほど、論理的な視点から見ると、また面白いですね。

俺も理系だけど、感じるがまま、受け入れるがまま(笑。
ちょっと、理系チックじゃないかなぁ、と利香さんの文章を拝見して、反省する今日この頃です。


もう25時。ね、眠い……。

kikuたん、あんまり誉めないでよん(恥)。やだなあ……。

 つまりは、独りではできない、ってこと(あはは……)。某作家だって、集団の意識を集めてようやく、だったでせう。実家で書いてる「無題」も、そんな見方からの文章なんですよ。

 ダメだ……。目がとろけてしまいそう。

気が満ちた思いをあらわすというのはわからないでもない。
すごいなー、こんな風に書きたいと思います。論理的に想いを語る。以前聞いた話ですが、理科系と文科系、左脳と右脳、思考回路が違うそうです。
私はどうしても情緒に走るきらいがあってね。
プロフィール

rikachang

Author:rikachang
 TVやお芝居で、せぷーくする場面を見るとジーンとしませんか(あはは……?)。ここでは、そんなちょっとおかしな切腹萌えさんの空想や、お絵描きなんかを羅列しているだけなんですよーだ。

 内容はいくつか大きなジャンルがありますから、カテゴリーでお好きな物を選んでご覧下さい。ぷ。

 あ、ちなみにもう、腐女子なんかじゃないもん。貴腐人と呼ばれてもグウの音もでないお年頃。貴腐ワインみたいに甘いかというと、そんなでもないんですけど(笑)。

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
読んでくれた人。
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。